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159年 [三国志・年表]

159年:延熹2年
・皇帝:桓帝(28歳)
・皇后:梁皇后・瑩(えい)(梁女莹)没 → 梁貴人
・将相大臣:梁冀(大将軍・録尚書事)没
・三公:(太尉)・(司徒)・(司空)
・曹操(4歳)・孫堅(3歳)
 
・この年に梁冀をはじめ梁氏一門と妻の孫寿ならびに孫氏一門が淪没する。

七月:
・梁冀の妹である梁皇后が崩じる。
・桓帝は、中常侍の単超(ぜんちょう)、徐璜(じょこう)、具瑗(ぐえん)と、小黄門史の左悺(さかん)、唐衡(とうこう)という五人の宦官へ、梁冀誅滅の謀画を練らせる。

(宦官が将軍を失墜させた例は、後漢王朝にふたつある。)
(そのひとつは和帝のため知恵をめぐらせた鄭衆であり、ほかのひとつは順帝のために剣をぬいた孫程の例である。)
(誅殺の対象となった将軍はふたりとも宮中にいて、虚をつかれ殞斃(いんぺい)したが、梁冀は自邸にいてめったに入朝しない。)
(そのため梁冀の第宅を包囲するには軍を動かす必要があり、それには尚書令による詔命がいる。)
(単超たちのたくらみを懸念した梁冀は、中黄門の張惲(ちょううん)を禁中へ宿させる。)

八月:
・丁丑(ていちゅう)の日、単超は今日をもって断行すると桓帝につたえ、具瑗を吏人のもとにゆかせ、張惲を収縛する。
・桓帝は尚書令である尹勲に勅使のしるしである節をあたえ、丞、郎、以下の諸官を指揮させる。
・単超が符節(門の通行に必要)を回収し禁中に送らせたため、梁冀は外から宮城の内の者へ命令伝達ができなくなる。

(具瑗が、虎賁(こほん)や羽林(うりん)ほか兵、千余人を指揮下に置く。)
(さらに具琬は、司隷校尉である張彪(ちょうひょう)とともに梁冀邸へむかい第宅を包囲。)
(桓帝は、光祿勲の袁盱(えんく)に節をもたせ梁冀へ詔命「大将軍の印綬を返上し、比景都郷侯としてただちに徙るべし」とつたえる。)

・梁冀と孫寿が服毒自殺する。
・それを知った梁不疑と梁蒙も自殺する。

その後の処罰-その処罰のため朝廷は空になったといわれる)
五侯への褒賞-梁氏を誅滅するため功のあった宦官)

・壬午(じんご)の日に、桓帝は梁貴人(後の鄧皇后)を皇后に立てる。
・鄧皇后の生母である鄧宣は長安君に封ぜられる。

・段熲(段颍・だんけい)が護姜校尉に昇進。
(八種姜と呼ばれる姜族の連合軍を、段熲が撃破。かしらを二千人斬り、一万余人を捕獲。)

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三国志 第二巻 (文春文庫) 三国志 第二巻

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